仕事の実力を高める方法
〜宮本武蔵はなぜ日本一の剣豪になれたのか〜
世知辛い世の中です。会社や上司のもとで一生懸命働いていても、ある日突然自分の仕事がなくなる、なんてことが平気で起こる時代です。一生懸命、まじめに働いている人ほど、「もっと仕事の実力を高めなければ」と焦っているのではないでしょうか。しかし仕事は増える一方で、がんばってもなかなか自分の力が伸びている実感がない…。そんな人が日本中で増えています。そこで、どうすればさらに実力をアップできるのか、ここで立ち止まってちょっと考えてみましょう。
「マスター、ちょっと相談に乗ってもらっていいですか?」
「なんだ。また仕事がうまくいかないのか」
「まあ、そんなところです」
 僕は、仕事で悩み事ができると、このバーのマスターに相談することにしている。ここのマスターは、60代後半になった今でこそ、こんな小さな店をたった一人で切り盛りしているが、昔はどこかの大企業の出世頭だったらしいのだ。それがどういうわけで、バーのマスターをすることになったのかは知らない。そんなことよりも、僕にとって重要なのは、ここのマスターは仕事についてのアドバイスがいつも的確だってことだ。
「でも、今回はいつもの相談とは、ちょっと違うんですよね」
「まあ、話してみなさい」
 マスターは、たった今まで自分が磨いていたグラスに、自分が飲むためのビールを注ぎ始めた。僕以外の唯一の客がさっき帰ったので、今は僕とマスターの二人だけだ。だから僕はマスターに相談を持ちかけたのだし、マスターもじっくりと僕の話を聞いてくれることにしたのだろう。
「なんだか最近、実力が伸びなくなってきた気がするんです」
「あぁ、ついに来たか」
「ついに来た?」
「そう。私は以前から、いつか君からそういう相談を受けるだろうって思っ
ていたんだよ」
「え?」
「どうしてそんなことが分かったのかって顔をしているな」
「そりゃあ、そうでしょう?」
 僕は半分驚くと同時に、半分は疑っていた。マスターが、以前から分かっていたふりをしているだけという可能性もあるからだ。でも、よく考えてみると、そんなことをする理由はマスターにはない。
「君はこれまで、それなりに実力を伸ばしてこれた。それは、どうしてだと思う?」
 マスターはそう言って、丁度良く泡を立てたグラスを傾けて、うまそうにビールを飲んだ。それを見ながら、僕は答えを考えた。マスターの言う通り、僕はこれまで確かに、それなりに実力を伸ばしてこれた。それは……。
「まあ、それなりに真面目に働いてきたから、でしょうね」
「うん、そうだろうね。そして、今もこれまで通り、それなりに真面目に働いている。それなのに、なぜか実力が伸びなくなった。そういうことだろう?」
 その通りだった。だから僕は、素直にうなずくしかなかった。
「昔の私の同僚の中にも、そういうヤツらがたくさんいたよ。つまり、実力を付けるためには、仕事をするのが一番だっていう考えの持ち主たちがな」
「じゃあ、そういう考えは間違いだってこと?」
 その考えは、僕自身の考えと同じだ。それが間違いだというのだろうか。
「いや、実力を付けるためには、仕事をするのが一番だよ。そこは間違っちゃいない」
 じゃあ、なんだと言うのか。僕が黙っていると、マスターが話を続けた。
「仕事っていうのは、必ずそれぞれ特殊な事情を抱えている。上司の癖、部下の癖、得意先の癖は、それに自分の癖。そういうのは全部、人それぞれ違う。そうだろう?」
「ええ、そうですね」
 そうだけど、だからなんだ?
「だから、自分の仕事から学べることには、偏りがあるんだよ。そこから学べることもたくさんあるが、学べないこともたくさんある。だから、自分の仕事をしているだけだと、そこから学べることはそのうちに全て学んでしまって、それ以上実力が伸びなくなるんだ」
 あぁ、そういうことか。でも、じゃあどうしたらいいんだろう?
「私も若い頃は、仕事さえしていれば実力が付くと思っていた。だから、がむしゃらに働いた。でも私はある時に、さっき言ったことに気づいた。このままじゃ先がないってね」
 そこで、またマスターはビールを一口飲んだ。僕は、さっきと同じように、沈黙することでマスターに先を促した。
「だから私は、勉強することにしたんだ。自分で言うのもなんだが、かなり勉強したよ」
「でも、実力を付けるためには、仕事をするのが一番なんでしょう? 勉強って役に立つんですか?」
「それだよ。昔の私の同僚たちも、そう言って勉強しなかったんだ。勉強で得られるものは、単なる知識だ。そんなものは、実際の仕事には活かせない。だから、勉強なんてするよりも、その分一生懸命に働いた方がいいんだって言ってたな」
 正直言って、僕もそう思う。実際、これまでに何冊もビジネス書を読んだけれど、一度として役に立ったことがない。読んでいる時は役に立つような気がするのだが、ただそれだけのことだ。
「武蔵は、どうして日本一の剣豪になれたと思う?」
「え?」
「宮本武蔵だよ。まさか、知らないわけじゃないだろう?」
「いや、知ってますけど……」
 知ってるけど、なんで突然、宮本武蔵の話になるんだ?
「武蔵はきっと、剣術の修行を人一倍一生懸命にしただろうし、何度も何度も真剣勝負をした。でも、それだけじゃない。それだけだったとしたら、武蔵は日本一にはなれなかっただろうね」
「じゃあ、武蔵は何をしたから、日本一になれたんですか?」
「だから、勉強だよ。武蔵が剣の達人だっただけではなくて、水墨画の達人でもあったことは、君も知っているだろう? それに、有名な五輪書は、剣術書というよりも、人生哲学書だ。これらのことから考えると、武蔵が相当広い範囲の知識を身に付けていたことが分かる」
「でも、知識を身に付けたからって、剣の達人にはなれないんじゃないですか?」
「知識を身に付けただけだったら、そうだろうね」
「じゃあ、武蔵はどうしたんですか?」
「きっと、考えたんだろうね」
「考えたって、何を?」
「そりゃあ、どうしたらもっと強くなれるのか、だよ。武蔵は、色々な知識を駆使して、それを考え抜いたからこそ、日本一の剣豪になれたんだ。剣の修行をしているだけだったら、そこまで考え抜くことはできなかったんじゃないかな」
「へぇ〜、面白い話ですね」
 面白いけど、だから何なんだ?
「知識ってヤツは一般論だから、そのままじゃ自分の仕事には活かせない。だから、どうしたら知識を自分の仕事に活かせるのかってことを、自分で考える必要がある。でも、それを考えても、すぐにはうまくいかない。何度も試行錯誤して、やっとのことで自分の仕事に知識を役立てる方法が分かるんだ。そうなって初めて、実力が付くんだよ」
「!」
そうかっ! 知識を覚えるだけじゃなくて、それを活かす方法を自分で考える必要があるのか。だから僕は、これまで何冊もビジネス書を読んだのに、いや、読んだだけだったから、何の役にも立たなかったんだ。
「知識を仕事に活かすのは、とても手間がかかる。それに、知識を得るために勉強することだけでも面倒だ。でも、知識を得なければ、ある程度のところで、実力の伸びは確実に止まる。事実、昔の私の同僚たちは、そうなってしまった。そして、とても残念なことになった」
「残念なことって、その人たちは、どうなったんですか?」
 それは、今のままの状態を続けた場合の、僕の将来像だ。
「……リストラされたよ」
「え? でも、一生懸命に働いていたんですよね?」
「だからだよ。彼らはずっと、勉強せずに、一生懸命に仕事だけを続けていた。その結果、実力の伸びが止まってしまった。だったら、彼らを雇っておくよりも、若い社員をたくさん雇った方がいいからね。おかげでこっちは、同年代のライバルがいなくなって、大した苦労もなく出世に恵まれた。そして、定年まで勤め上げて、めでたく退職金をもらった。それで、若い頃からの夢だった、この店を開けたってことだ」
 この店の背景には、そんなドラマがあったのか。僕は、何も言うことができなかった。
「で、どうする?」
「どうするって、何がですか?」
「だから、勉強するのかしないのかってことだよ。これからの長い人生について、よく考えて答えを出しなよ」
 考えるまでもなかった。僕は既に、勉強することを固く決意していた。


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